にっぽんちゃちゃちゃ

社会問題等について「そもそも」や「なんかズレてね?」という切り口で書きます。

はじめに

*この記事は常にトップです

はじめまして。ごえむと申します。

政治経済等の社会問題を中心としたテーマでブログを書いていきたいと思います。

よくあるような細かいデータや事実を並べて議論するのではなく、「そもそも」や「なんかズレてね?」という切り口で書けたらなと思います。

※気軽にコメント下さい。否定的な意見でも構いません。一言二言でも結構です。

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ガッツポーズ

少し前ですが、オリンピックで勝った後、ガッツポーズするのが良いとか悪いとかで問題になってましたよね。このブログの趣旨とは違うかもしれませんが、個人的な意見を書こうと思います。

はじめに言いますが、私はガッツポーズ賛成派です。

相撲とか神事としての側面があるものは除きますが、ガッツポーズするってことは、当たり前の事いいますが、「嬉しかった」からする訳です。つまり、相手は自分に勝てて嬉しいと思っているってことですよね。

勝てて当たり前と思うよりも、勝てるか分からない程強い相手だから勝った時の喜びがあるんですよね。つまり、相手は自分のことを相当評価してたってことですよ。

逆に考えるとガッツポーズすることが相手へのリスペクトになってるんじゃないかなと思います。

自分も経験がありますが、スポーツの試合で負けて、相手が全く喜んでない事が有りました。その時は、礼儀正しいなとは思いませんでした。なにスカしてるんだよっていう思いのほうがありましたね。

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安倍が悪いのか悪くないのか

よく、「安倍が悪い」という言葉を見ます。もちろん、首相なので全ての責任は最終的には安倍総理大臣にある訳です。そういった意味で「安倍が悪い」と言うのは理解出来ます。

このような日常会話的な意味で使うのには、よろしいことでしょう。しかし、一歩踏み込んだ話の場合、一概に「安倍が悪い」と言うのはどうなんでしょう。

悪いか、悪く無いかで考えるよりも、もう少し大局的な視点で見たほうが良い時もあります。

ビスマルクは政治について次のように述べています。

「政治とは妥協の産物であり、可能性の芸術である」

与党と野党が話し合い折り合いをつける。国民が投票し、国民の代表である議員が国会で話し合う。だから民主主義なんです。つまり、政治イコール安倍のワンマンじゃないんです。

何か政策が決まったとします。でもそれは、A党とB党とC党....が話し合い、妥協し合える地点での合意かも知れません。その合意内容はA党の理想の100パーセントかも知れませんし、50パーセントかも知れません。

リーダーの意思決定というのは、様々な制約のもとにあるんです。それは時間だったり、情報だったり、国際関係だったり、心理的要因だったり。

つまり、リーダーが思っていることと、意思決定というのは違うものなのです。

冒頭に述べたように、最終的な責任は首相にあるので大枠での、「安倍が悪い」と言うのは間違いではないでしょう。しかし、ネットで(リアルでもいいですが)政治を語っている方、一歩踏み込んだレベルでの政治の話がしたいのなら、「安倍が悪い」というだけではなく、大局的な視点も持ったほうが良いと思います。

このリーダーの最終目標は何なのか?今回の政治的決定は、どういった背景なのか?大きく妥協させたのか、させられたのか?と大局的に見ることが必要なのではないでしょうか。

あなたが考えるベストな政策、首相が考えるベストな政策。これは絶対に達成されることはありません。政治とは妥協の産物なんです。

 

 

観光客対応とおもてなし

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お・も・て・な・し

おもてなし!

この言葉が流行ってだいぶ時間が過ぎたように思えますが、おもてなしの意味履き違えてる人多くないですか?

最近は外国からの観光客が増え、その影響で今まで問題にならなかった事が色々出てきてますね。例えば、入れ墨ですね。

日本では入れ墨は良くないイメージですが、外国ではカジュアルに入れている人もいるみたいです。入れ墨の歴史についてここでは触れませんが、この議論になると、「観光客対応として入れ墨も受け入れなければならない」といった様な論調が出てきますよね。

 

これは「おもてなし」の意味を履き違えてるから出てくる発想だと思うんです。「おもてなし」というのは、訪れた人の世話をしたりもてなしたりすることで、好き勝手にさせる訳ではないんですね。また、見返りを求めない主体的な行為でもある訳です。つまり、その家の中でのお世話であったり、もてなしであったりするわけで、その家のルールを超えたものではないんです。

 

これに乗っ取って考えると、この入れ墨とは日本では「悪」と捉えられているため、外国人がそれに合わせるべきなんです。

まぁこんな理論だてて考えなくても、日本を訪問する外国人に対して、何でも外国人に合わせて考える事自体がおかしいんですがね。

だって、日本人が海外旅行に行くと、その国のマナーや風習に合わせるじゃないですか?イスラム教の国に行って、日本と違うからと言ってスカーフを被らずにモスクに入ったりしませんよね。チップもそうですね。日本では払わなくても良いけど、アメリカに言ったら当然払いますよね。日本ではこんなのない!おかしい!といって払わない例は聞いたこともありません。

 

しかし、それが自分たちの国に入ってくる外国人に対してだと変わってしまうんですね。なぜ自分たちが外国に行った時には、その国の風習に「合わす」のに、こちらがホストになると「合わさせない」のでしょうか。

 

それでは、「おもてなし」とは何なのでしょうか。

観光業は日本にとって重要な収入源の1つですから、「これは日本の風習だから」と強固な主張をするのも戦略的ではありません。しかし、外国人の好き勝手にやらせるのも違いますよね。そもそも、外国に合わせていたら、「日本への理解」が深まりません。外国人からしたら「なぜ自分の国では入れ墨はOKなのに日本ではNG何だろう」と思わせる事が、日本への理解を深める第一歩なはずです。

本当のおもてなしとは、こういった日本の風習を「伝える事」です。風呂に、「入らせる」か「入らせない」かではなく、まずはこの風習を伝える。1か0かではなく、その間に答えはあるはずです。

 

次に戦略的に考えてみましょう。今まで述べてきたように、日本の風習を伝える事は出来ました。しかしそれでは、「入れ墨の外国人は温泉に入りづらい」という状況は改善しません。

そこで次にやるべきことは、それぞれの温泉のスタンスを明らかにする事です。これも「おもてなし」なはずです。観光客を相手にしている温泉地では、入れ墨の客を入れるのも良いでしょう。逆に、ひっそりとやっている温泉地なんかでは、はっきり「ダメ」だという事を表しましょう。外国人に対し、「俺は入れる・入れない」ということを教えてあげる事も大事なのです。

 

今回は入れ墨にフォーカスして書きましたが、風習に関しては入れ墨だけではなく様々な問題があると思います。しかしどれをとっても、外国人は日本に「合わす側」なんです。そして「おもてなし」とは、「いかに合わせやすくするか」というだと思います。

白鳳レベルが横綱になれるってこと

白鳳がかなり叩かれているみたいですね。

私は相撲の事は良くわからないのですが、ニュース等を見ていると「立ち合いを変化」させて勝つのが良くなかったり、「横綱」らしくない相撲の勝ち方をしてる事が原因らしいのです。

どうやら、相撲の世界では「強くて」、「相撲の歴史を重んじる」人が真の横綱として認められ、それに伴った行動をしなくてはならない、そういうことだと思います。

相撲は国技で、大変歴史も深いもので、その歴史の中で横綱論が構築されてきたのは十分理解できます。またファンにとっても、ルールには書いてなくても、横綱を見るだけで相撲の奥深さを体感できる。こういう事でしょう。

 

そんな中で、「モラルとしてはどうなのか」、「スポーツとしてどうなのか」、「ルール的にはどうなのか」と言ったようなトピックでこの問題を語っている人が多く見受けられます。

私は相撲の事は良く分からないので違う視点で考えてみたいと思います。

それは・・・

白鳳でも横綱になれるのがおかしいのでは?

という事です。相撲ファンから言わせると、白鳳は横綱としての態度、風格がないというでしょう。

でも、そんな奴が横綱になれてしまうんですよ?それっておかしくないですか?

つまり、今の日本の相撲界は白鳳みたいな奴が横綱になれてしまうくらいレベルが低い。

そういうことではないでしょうか。

 この問題の発端は白鳳にあるでしょう。しかし、こんな奴がのさばれる相撲界の方がもっと問題では?

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何に怒っているかが重要

高市氏の電波停止発言を皮切りに、報道の自由を訴えている。

安倍政権に批判的とされるキャスターが相次いで降板することを挙げて色々訴えているみたいだが、私は良い事だと思う。

というのは、日本の報道の仕方に自由がないと思うからだ。

アメリカではテレビの多チャンネル化が進んでいるため、独自路線を展開して顧客を集めようとしている。だから、この選挙でもトランプ押しのテレビ局とか新聞がある訳だ。

日本では、何かと中立が大事だといって、どのチャンネルをつけても同じような事しか言っていない。しかも、大抵は政権批判を行っている。これでは、報道の自由があるとは思えない。

アメリカの様にYESかNOかの社会になるのも問題だが、現政権を持ち上げるだけ持ち上げるチャンネルもあってはいいのではないか?

本当に「報道の自由」に対する制約?に怒っているのであれば、現政権を持ち上げるチャンネルの事だって認められるはずだ。

もし認められないというのなら、それは「憲法放送法の精神に反している」という皮を被った現政権批判にしかならない。

 

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コピペ問題と保育園落ちた日本死ね

民主党山尾志桜里さんが「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログを国民の声だとして安倍首相に対し予算委員会で訴えた事が話題となっているみたいですね。

これに対して首相は「匿名である以上、実際本当に起こっているか、確認しようがない」と発言して、山尾さんが激オコというのが流れですね。

ここで論点を整理しておきましょう。

①保育園に子供が入れないという問題がある

②この事実を匿名のブログを使って訴えた

以上の2点になると思います。

安倍首相は「匿名である以上、実際本当に起こっているか、確認しようがない」と発言しているんですね。

つまり②に対してのみ返事をしているんです。

しかし、メディアでは異なる捉え方をしているようです。論点は①と②の2つある事を確認しましたが、メディアでは安倍首相が「保育園に子供が入れないという問題」を、ないがしろにしていると考えているようです。

つまり、安倍首相の発言は①に対してのものであると。

はっきり言って、メディアは論点を間違えています。繰り返しますが、安倍首相は②に対して、返答をしたにすぎないのです。①に対しては何も答えていません。

それなのにも関わらず、①の質問に対し返答を行ったかのように報道しているのではありませんか?

①の質問には①(①→①)

②の質問には②(②→②)

とならなければならないのに、

①→②となってしまっている所を、無理やり捻じ曲げています。

それに加えて②の「匿名のブログを使って訴えた」という部分についても考えてみましょう。国会というのは議論する場所ですので、細かいデータや事実に基づいて話をしなければならないはずです。そうなのにも関わらず、出典が不明確な匿名のブログを元に議論をしようとしたのですから、「匿名である以上、実際本当に起こっているか、確認しようがない」と言われるのも仕方がないのではないでしょうか。

コピペがかなりの問題になっている今、出典が分からない文献を載せるなんて大学生でもやりません。

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国会前では、この様なデモが行われているそうです。保育園に落ちてしまったのは本当に大変な事だとは思いますが、それとは別の問題として国会で出典不明なデータを元に議論を行おうとしていた、という事実もある訳です。

今は訴える側なので良いかもしれませんが、何か別件で、なおかつ自分が非当事者で出典が分からないデータを元に議論が行われようとしている...と考えたらどうですか?自分が困る場合も出てくるわけです。

保育園問題を訴えるのと同時に、出典不明な文献を国会で議論する材料にする事を認めてはいけません。

保育園問題と並行して、この問題も考えるべきではないかなと思います。